理系大学生が振り返る大学の選び方。”やりたいこと”が分からない昔の自分へ

 

大学を選ぶときは「やりたいことを学べ」と言われるが

親には,「就職のために,とりあえず大学は出ておけ」と言われる。

高校の進路の先生からは,こう言われる。

「やりたいことが学べる大学に行きなさい」

高校時代,先生から与えられることだけやっていれば十分だった。与えられた時間割をこなして,決められた時期のテストでいい点を取れば,それだけで「優等生」。与えられた範囲内のレールの敷かれたゲームでまわりよりもいい点数をとればいい。簡単なお仕事だ。

特に進学校にありがちなのは,「部活も学校行事も全力で頑張って,その上さらに勉強も頑張る」というもの。スペックとキャパシティの高い人間が集まる進学校では,なんだかんだで部活も学校行事も勉強も,それなりのレベルでやってのける人間が多い。

よほど意識しない限り,進学校の人間の日常はいかにも高校生的。そんな日常の中で「将来やりたいこと」を探す余裕なんて,ない。そして,いままで与えられてきたことをこなしてきた人間にとって,自分と向き合ってやりたいことを探せだなんて,無理な話。

18年生きている視野で,やりたいことなんて見つかるわけがない。

もしかしたら親が医者だったら,おのずと医学部に進んでいたのかもしれない。けれども,僕はただの理系大学生。文系と理系を選ぶ高校1年の当時は,「理系なら医学部行ける可能性が残されているし,就職にも強いはず」と思って理系に進んだ。

けれども,今となって自分が本当にし興味があるのは,経済学部や商学部で経営やマーケティングを学ぶことだったのだと気づいた。(あと,文系のほうが理系よりも楽だから)

残念ながら,高校を(人並みに)エンジョイしていた当時の僕,「東大に行きたい(結局2回受けて叶わなかったが)」という思考しかしていなかった受験生の僕にとって,本当にやりたいことを考えて大学を選ぶ余裕なんてなかったのだ。

進んだ大学でやりたいことをできる人間なんて一握り

僕たちは,大学を選んでいるようで選んでいない。

大学選び,学部選びは学力と家庭の事情の制約を大きく受ける。

行きたい大学を選んだとしても,その大学に入れるとは限らない。また,家庭の事情で県外の大学や私立に行けないということもあるだろう。

国公立か私立かを選んで,その中で自分の「身の丈に合った」大学を選ぶ。(見の丈以上の大学に行こうとすると,必ず痛い目を見る。)じつは学部選びなんて,大学名を選んだ後の二の次の話という人が多いのかもしれない。

あと,選んだ大学がやりたいことできるベストな場所とは限らない。パンフレットやオープンキャンパスである程度大学生活に触れることはできるが,どれも入学者集めの宣伝向けの情報。「不都合なこと」なんてほとんど書かれていない。

だから,入る前にその大学に対して持っていた印象と,入った後に実感した印象は当然違う。

大学を外から見ている限り,「本当にやりたいことが学べるベストな環境」にめぐり合えるなんてほぼ不可能なのだ。もし,「今の大学で自分のやりたいことができている」という人がいたら,それはとてもラッキーなことだ。あるいは,今の環境を受け入れるしかないと自分に嘘をついて,本当にやりたいことをごまかしているだけなのかもしれないが。

大学に進んで,やりたいことは変わって当然

人間の興味は,変わる。

僕は当初,人工知能の研究をしたいと思っていた。でも,今の大学では人工知能の最先端をやっている研究室なんてないと分かってがっかりした。

すると,量子コンピュータが面白そうだなと思えてきた。けれども,量子コンピュータを究めるには,大学院まで進んでその先まで大学に残って研究するくらいの覚悟がないと大きな成果は残せなさそうだ。

やっぱり大学院は行く気にならない。学部卒業したら就職しよう。それなら,院進が前提の理系なんかにくるんじゃなかった。単位が緩くて実験もない文系で,ビジネスや経済のことを学んでいたかった。

そうやって,僕のやりたいことはコロコロ変わってきた。

大学でやりたいことができない僕が,たどりついた境地

大学のカリキュラムと自分の学びたいことが完全にミスマッチしている状態の今の僕。とうとう,ある境地に達した。

「やりたいことは、自分で勝手にやればいい」

大学でやっていることが自分のやりたいことに完全に一致するなんて,無理な話。大学なんて,授業の組み方を多少工夫して,出席ない科目を多めに履修すれば授業に出る必要はなくなる。

そして,「自分の自由な時間」が増える。その時間で,自分のやりたいことを勝手にやればいいのだ。読みたい本を勝ってみ読めばいいのだ。

「したくない勉強をさせられる貴重な環境」だからこそ,大学には意味がある

自分の好きなことは,自分で勝手にやるもの。自分で勉強していれば,大学なんかで勉強する必要はない。

じゃあ,大学の意味ってなんなのか?僕の答えはこうだ。

「大学は、自分一人では独学しないであろう学問を,他人から学ぶ機会を与えられる場」

線形代数,解析力学,量子力学,実験,などなど,自分の独学のエネルギーで学ぼうとするなんてまずない。独学でやれそうなのは,語学,哲学,ビジネスに関する経済学やマーケティング,文学,心理学,社会学といったところだ。

数学や物理なんて,自分の読書を広げても本格的にやる気にはならない。だからこそ,今,理系の学部生として「やらされる」ことに意味があるのかもしれない。

人間は,自分が経験した範囲内でしかものを考えられない

何か問題に直面した時,人は,自分の経験した範囲内,それまで生きてきた人生で触れた物事の範囲内でしか物事を考えられない。

例えば,あるスポーツチームが成績に伸び悩んでいるとしよう。独自の精神論と哲学で生き残ってきた監督なら,きっと根性論で現状を解決しようとするかもしれない。海外でコーチを学んだ人なら,世界の最新の戦術を取り入れるかもしれない。データ分析の重要性を知っている監督ならば,データ分析に活路を見出すかもしれない。

色々な引き出しがあればあるほど,1つのことを色々な角度から見ることができる。もし,大学でやる勉強が,自分のやりたい勉強だったら?やりたい勉強は深まるかもしれないが,それ以外の軸を持つことができない。

一方で,大学の勉強が自分の一番興味あることでなかったとしても…それは,自分自身の一つの軸になりうる。そういった軸も持ってないと、きっと薄っぺらい人間になってしまうと思う。

「やりたいこと探し」の呪い

「やりたいこと」を探すのって,本当に難しい。

「歌手になりたい」「お笑い芸人になりたい」「役者になりたい」といった夢を,成し遂げたかに見える芸能人。だが「芸能界」でのすべてが,彼らの望んだことなのか?面倒な企画会議,自分には決定権のないスケジュール,事務所やスポンサーへの配慮,外出する窮屈さ,などなど。

芸能人になることを望んだのに,芸能界に疲れて精神を病んだり体調を崩して消えていく芸能人。きっと他の世界にも,同じような例はたくさんあるのだろう。研究者になりたくて大学で講師をしてるのに,その時間の大半は授業や学生の指導,といったように。

遠くから見ると,「自分のやりたいこと」は魅力的に見える。けれども,いざその場所にたどり着くと,「これが本当に自分のやりたかったことなのか?」と見失ってしまう。

もしかしたら「やりたいこと」とは,追いかけただけどおざかっていく水平線のようなものなのかもしれない。

だから,大学で「やりたいことをやる」ってのはそれほど重要なことだとは思わない。不本意な環境に置かれたとしても,その中で少しでも「面白い,がんばりたい」と思うことが見えてくるかもしれない。やりたいことで生計を立てていける人はほんの一握り。自分のやりたいこととは違っても,置かれた環境に楽しみを見出す訓練も人生には必要なのかもしれない。

「やりたいこと」なんて,逃げ水のようなものだ。そんなことを深く考えてもしょうがない。置かれた場所で小さな幸せを見つけながら,自分にできることを探していきたい。