「健康のためなら、死んでもいい。」矛盾と逆説をはらんだこの言葉は、まさにパワーワードだ。
パワーワードは、一度耳にすると忘れない。そして、ふとした時に思い出して、なんとなくネットで検索したくなる。
現にこのページも、「健康のためなら死んでもいい」という検索に引っ掛かって、1週間に300人くらいの人が読んでくださる記事になっている。
さらに詳しく調べてみると、このページにアクセスせずとも、「健康のためなら死んでもいい」という検索をしている人が、1週間に1000人くらいいるということも分かった。
「健康のためなら死んでもいいい」という言葉は、Googleでなんとなく検索してしまいたくなるくらい、人々の心を掴んで離さない言葉なのかもしれない。
このページ読んでくださっているあなたも、一週間のうちに「健康のためなら死んでもいい」という検索をする、奇特な1000人のうちの一人だ。ようこそ。
正直、ユーザーの皆さんが「健康のためなら死んでもいいい」という検索結果に何を求めて Google 先生にお伺いを立てたのか分からない。
ある人は友人のアメリカ人に、「アメリカ人は健康オタクすぎて、” 健康のためなら死んでもいい” と思ってるんだぜ、HaHaHa」というジョークを聞いて、検索しようと思ったのかもしれない。
またある人は風邪や病気で床に臥せていて、健康のありがたみを噛みしめながら「健康のためなら死んでもいい」という言葉を検索したのかもしれない。
色々調べていくうちに「健康のためなら死んでもいい !アメリカ式長寿への挑戦」という本(2000年出版)が存在していることも分かった。この本をネットで買いたくて調べた人もいるかもしれない。
どちらにせよ「健康のためなら死んでもいいい」という検索をする人に共通するのは、多かれ少なかれ暇だ、ということだ。
このページでは、「健康のためなら死んでもいいい」というとっつきにくい言葉について、自分なりの健康観を絡めてあれこれ書きながら、「健康のためなら死んでもいいい」という検索をわざわざするような暇な人々に、このサイト「Dualizm」について知っていただくきっかけとなるページにしたいと思っています。
僕自身と健康について
50代以上の同窓会になると、病気とか健康法が会話のほとんどになるらしい。
こんな記事を書いている僕は、そんな世代とは程遠い 20代前半の大学生だ。
もともとこのページは、ブログを始めたばかりで何を書いていいか分からなかった2018年の8月くらいになんとなく思い立って書いてみた記事。
その後ブログのサイトをしばらく放置しておいたのだが、気づいたらこの記事が謎にアクセスを集めていたので、この度慌てて書き直そうと思った次第だ。
なにせこのページは、20代の大学生が書いた文章です。
「健康」についての有益な情報はこの先何一つ書かれていないということに留意して読んで頂けたら幸いです。
「健康のためなら死んでもいい」は例えツッコミに使えそう
現代の日本社会を生きていて、平均的にネットをサーフィンするような人なら、「健康のためなら死んでもいい」という言葉に一度や二度、触れたことがあるのではないかと思う。
どことなく矛盾していて本末転倒なところが、なんとなくユーモラスに聞こえる。
最近のテレビやお笑い界では、「例えツッコミ」や「返し」がうまい芸人が評価されているところがある。
手段と目的が逆転している、本末転倒なことに対して、「それはまるで、健康のために死ぬようなものだよね」みたいな例えツッコミをしたら、周りの人には「おぉ~」と思われるかもしれない。これを日常会話で使うと、「あの人、なんだか返しが知的だな」と思わせることができる。
蒼井優と結婚して好感度上昇中の山里亮太は、「返しの天才」と評価されている。そんな山里亮太は、バラエティーや漫才、ラジオで使うための「例えツッコミ」や「返し」をメモしたノートをこまめに書いているらしい。(オードリーの若林に、このことをよくいじられている)
きっと、山ちゃんのノートにも「健康のためなら死んでもいい」という強めのわーどがかかれているのに違いない。
「健康のためなら死んでもいい」はラジオネームにできそう
僕は、深夜のお笑いのラジオを聴くのが趣味だ。
だからこそ、「健康のためなら死んでもいい」という捉えどころにないテーマについえt、お笑いやラジオのことを引き合いに出して書いてしまう。興味のない人はすみません。
僕はラジオをよく聞く方だが、いわゆる「ネタメール」を積極的に送って放送に積極的に参加するような「はがき職人」じゃない。
ラジオが好きなのに、まだ一枚もお便りを送っていない理由の一つには、生放送をリアルタイムで聴いていないことがあるはずだ。(大抵僕は、深夜の放送をRadiko の タイムフリー機能で後から聴いている)
もう一つの理由が、「自分自身のラジオネームを持っていない」ことがあると思う。ラジオネームには、「意味が分からないけれども、なんとなく頭にのこる強烈なフレーズ」 がつけられていることが多い気がする。主婦や高齢者が聴くような昼間のワイド番組は「よし子」みたいなシンプルな名前が多い気がする。一方で深夜のお笑いラジオは、ラジオネームの時点からすでに「大喜利」は始まっているのだ。
「健康のためなら死んでもいい」というわーどは、その支離滅裂な感じがラジオネームとして悪くないと思う。受ける気のない資格試験に、とりあえず申し込んでお金を振り込んだら徐々に受ける気が出てくるケースがあるように(もちろん、この作戦は往々にして失敗することもある)、ラジオネームをいったん決めてしまえば、思いついたアイデアをそのうちラジオに送る気になるのかもしれない。
何かを始めるときに大切なこと、それはきっと、形から入ることであり、ラジオネームといった「入れ物」の部分を作ってしまうことなのかもしれない。
バンド名にしては、長すぎる
意味はよく分からないけれど印象に残るワードは、バンド名にも付けられる。
「Mr.Children」は、大人を表す「Mr.」と子供を意味する「Children」という、矛盾をはらんだバンド名だ。
どうやら、「カラスは真っ白」というバンドも存在するらしい。矛盾をはらんでいるバンド名は、名前をつける当事者にとってはすごくロックなんだ。
「健康のためなら死んでもいい」も、言葉の作りとしてはミスチル的だ。
それでも、バンド名にしては長すぎる。
「健康のためなら死んでもいい」に似た、日常の支離滅裂
「健康のためなら死んでもいい」人のことをバカにして笑う人達も、多かれ少なかれ健康のために死ぬような支離滅裂なことをしているはず。僕だってそうだ。
例えば、「安いものを買うためにお金を払っている」という例。
隣の市のスーパーで安売りしているという情報を聞きつけて、車やバスではるばる買い物に行く主婦。
隣の県のアウトレットにわざわざ出向いて、安い服を買い求める家族連れ。
コストコで大容量で安いものを買うために会員の年会費を払うのも、「健康のために死ぬ」ならぬ「安売りのためにお金を払う」ということになりそうだ。
車のガソリン代、わざわざ遠くへ行くための時間などを考えると,近くの店で買い物しているのと労力はそれほど変わらないように思う。
それに、「安売りしているから、今は必要ないけれど買わないと損だ」と思って余分に物を買うことは、なんやかんやで損している気がする。たくさんストックあるから、多少無駄遣いしても大丈夫と思って消費スピードが上がってしまう気がするから。
僕みたいなできの悪い学生がやりがちなのは、「テスト勉強するために授業を休む」ことだ。
「マイホームのローンを返済するために、会社で残業する」のも、「健康のために死ぬ」的な何かを感じずにはいられない。
「自分の城」のローンを返すために、自分の城にいる時間を削って働く父親を見て、そんなことを思った10代の僕だった。
1945年のアメリカ軍なら、「平和のために、原子爆弾を落とす」という意思決定をしたのかもしれない。
「健康のためなら死んでもいい」の根源にあるもの
「健康のためなら死んでもいい」について考えていたら、国家レベルの話に行きついた。ずいぶん遠くまで来てしまったものだ。
もともとは、「健康のためならしんでもいいアメリカ人」を揶揄した言葉だから、アメリカに始まりアメリカの話にまた戻っただけだ。
「健康のためなら死んでもいい」の根源にあるものは、その人(あるいは国家)にとっての「正義」であり、「信念」なのかもしれない。
健康を絶対的な正義と考える、「健康のためなら死んでもいい」人
安売りこそ正義と考える、「安売りのためならお金を払ってもいい」人。
会社を絶対的なものと信じる人は、「マイホームのローンを返済するために、会社で残業する」ことを選ぶだ。
翻って、Dualizm というサイトについて
このサイトには、二拠点生活(デュアルライフ)とデュアルワークを実現するまでの迷いや悩みの過程をつづっていく。(関係のない息抜き的投稿がまだメインだけれども)
そんな生活を実現したいと思う自分自身の思いの根底にあるのは、「健康のために死ぬ」と同じくらい支離滅裂な、「マイホームのローンを返済するために、会社で長時間残業をこなす」みたいな生き方をしたくないという気持ち。
「二拠点生活」を志向するということは、マイホームを買って一生その場所に住むことをしないことだ。
デュアルワークをするということは、一つの会社で長時間働くのではなく、「自分が面白い」と思える会社やプロジェクトに複数関わりながら仕事する生き方だ。
すでにネット上には、「副業で設けるノウハウ」人や、「旅しながら生きる」的なブロガーもちらほらいる。
そういう人に憧れる気持ちがある反面、その人たちの書く文章や書き方が「まだ、一つの会社に縛られてるの?まだ、マイホームかって定住する生活をしようとしてるの?」みたいに煽られている感じがする。
まるで、「一つの会社一つの家で ” 普通に生きる” 」我々みたいな人をどこかでバカにしているような感じを受ける。
自分自身はまだ、「副業で稼ぐ」とか「マルチな拠点で旅するように生きる」ような生活を実現できていない。平凡な大学生(理系)だ。
それでも、一つの会社や場所に囚われて毎日を過ごすこの先の人生は、なんとなく退屈な気がしている。
単調な日々の中で退屈さと格闘しながら、自分の実現したい生活に少しずつ向かっていく過程が、誰かの背中を押すきっかけになることを願いながら、このサイトを育てていく所存であります。